歴史

【戸籍制度の歴史】日本の最強システム!古代から現代まで徹底解説!

戸籍
noa_gyouseisyosi

日本の戸籍制度は正確で、利便性が高く、信頼されたシステムであるといえます。

しかし、今の形に至るまで、実に1300年以上もの長い歴史があります。

そして、時代ごとに目的があり、形を変えながら運用されてきました。

この記事では、戸籍制度の古代から現代までの歴史だけでなく、関連のある出来事や時代背景も合わせて解説していきます。

バナー画像

1. 戸籍とは何か?

戸籍とは、国民の親族関係を公に証明する台帳のことで、出生や死亡、夫婦、子ども、兄弟姉妹などが登録されています。

戸籍があることで、海外旅行や婚姻、相続の際に、スムーズな手続きが実現しています。

2. 最古の戸籍制度

最も古い戸籍は、6世紀中頃に見られ、名籍(なのふだ)と呼ばれていました。

当時の戸籍は、朝鮮半島から移住してきた渡来人を把握するためのもので、全国を対象とはしておらず、一部の地域で運用されていました。

戸籍の始まりは、海外移住者の管理が目的だったことが伺えます。

3. 飛鳥・奈良時代の戸籍制度

3-1. 日本初の全国的な戸籍

法隆寺金堂
法隆寺 金堂

飛鳥時代に戸籍制度が大きく進展します。

645年の大化の改新(たいかのかいしん)で天智天皇や中臣鎌足を中心に、律令国家の樹立に向けて、先進的な国づくりが行われました。

当時の先進国である中国を参考にし、行政機関や法律などの改革が行われました。

そして、670年に庚午年籍(こうごねんじゃく)と呼ばれる戸籍制度が開始されます

この庚午年籍が、全国単位で作られた日本初の戸籍とされています。

この「こうご」や、後で出てくる「こういん」「じんしん」は、古代中国から伝わる暦法です。

数字の代わりに、十干(じっかん)と十二支(じゅうにし)の単位を組み合わせることで、年数や、時刻、方角などを区切ることができます。

庚午年籍の「こうご」は年数を表しています。

十干・十二支
十干・十二支

60歳を還暦(かんれき)と呼ぶのは、十干・十二支は60年で、自分の生まれた年に戻るため、もう一度、生まれ変わると考えられていることに由来しています。

庚午年籍は身分・氏姓を管理するとともに、徴兵など軍事目的での活用も見られます。

また、それまで一部の地域で運用されていた戸籍の保存期間が30年であったのに対し、庚午年籍は永久保存とされました。

しかし、1300年以上前の戸籍のため、実際に存在していたというエビデンス(証拠)がありません。

従って、今でも歴史学者の間では、「庚午年籍は実在していたのか」というテーマで議論されることがあります。

3-2. より進化した戸籍

その後、690年に新しい戸籍制度の運用が開始されます。

庚午年籍をより進化させた庚寅年籍(こういんねんじゃく)と呼ばれる戸籍制度です。

これまでより登録の精度が上がり、6年ごとに編成されるようになりました。

そして、戸籍制度をもとで租税徴収や徴兵が行われ、国家による人民支配はより強固なものとなっていきます。

この時代は、地方の豪族を中心とした国家体制から、天皇中心の律令国家へと大改革が行われました。

まさに先進的な国づくりの過渡期と言えます。

大化の改新は、土地と人民を国家が直接支配する公地公民(こうちこうみん)という方針で進められました。

戸籍制度とともに、班田収授法(はんでんしゅうじゅほう)という仕組みによって具体的に国家が支配した土地をどのように人民に分け与えるかを定めていました。

4. 平安時代に戸籍制度が終焉

平安京羅城門 模型
平安京羅城門 模型

8世紀中頃に入ると分け与える土地が不足し、分け与えられた後に開拓された土地も荒廃したため、班田収授法は廃止されます。

また、租税を逃れるため、戸籍の偽装が行われ、浮浪人が増えました。

このような時代背景の中、戸籍制度は崩壊し、全国的な戸籍は編成されなくなります。

班田収授法は、分け与えられた土地は、1代限りとして、死んだら国に返す必要があったため、農民の土地を開拓する意欲が低かったと考えられます。

そこで国は、743年に墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)を施行し、新規で開拓した土地について、永久に所有を許可するというインセンティブを与えました。

この頃から、貴族や寺院などが、人や資本を集めて大規模に開拓を行い、やがて力を持ち始めました。

5. 鎌倉・室町時代の人民管理

鎌倉大仏
高徳院 鎌倉大仏

平安時代後半より、貴族の護衛に雇われた武士が影響力を強めました。

そして、平氏を滅ぼした源氏が、1192年に鎌倉に幕府と呼ばれる武家政権を誕生させます。

鎌倉・室町時代は、戸籍に関する資料はありませんが、国を統治するための仕組みはありました。

武家社会の道徳や慣習をもとに制定された御成敗式目(ごせいばいしきもく)の中で、人民を把握するための台帳が確認されています。

6. 安土桃山時代の人民管理

大阪城 天守閣
大阪城 天守閣

戦国の世が終わり、1590年に天下統一を果たした豊臣秀吉の時代にも、戸籍に代わる制度が見られます。

農民から年貢(お米)を徴収するために行われた太閤検地(たいこうけんち)です。

この制度を運用するために検地帳(けんちちょう)と呼ばれる台帳に、土地の所有者や面積、収穫高などを、役人が現地をチェックし記載していました。

このように、中世以降は「戸籍」という名前はつかないものの、人民の管理や租税を徴収するために、台帳が用いられてきたことが分かります。

7. 江戸時代の人民管理

日光東照宮 陽明門
日光東照宮 陽明門

7-1. お寺が役所の役割を果たす

豊臣秀吉亡き後、徳川家康が政権を握り、1603年に江戸幕府をスタートさせます。

江戸時代になっても「戸籍」という名前は見られませんが、戸籍に代わる新しい仕組みが生まれます。

幕府や藩が村や町ごとに作成させた宗門人別改帳(しゅうもんにんべつあらためちょう)や、お寺が作成した過去帳(かこちょう)が民衆や門徒を管理する上で、重要な役割を担いました。

宗門人別改帳は、公の目的でつくられた台帳で、家族構成・生年月日・職業・檀家となっている寺などが記載され、藩が管理しました。

移住する時は、お寺での手続きが必要で、今でいう住民票のような機能が備わっていました。

過去帳は、ご先祖の戒名(死後の名前)・死亡年月日が記載され、お寺や個人が管理しました。

現代の戸籍調査では、明治時代までしか遡ることができないため、江戸時代以前のご先祖調査を行う場合は、重要な資料になります。

原城址
一揆軍が籠城した原城址(長崎県南島原市)

宗門人別改帳や過去帳が運用されるようになった背景として、キリスト教の勢力が拡大したことがあげられます。

幕府は、国家統治の影響力が低下することを恐れ、キリスト教を弾圧するようになりました。

キリスト教徒の大規模な反乱である、1637年の島原の乱(しまばらのらん)以降は、幕府は鎖国の体制を整え、宗教統制を強化し海外との交流に制限をかけます。

そして、寺請制度(てらうけせいど)を設け、キリスト教徒ではなく、お寺の門徒であることを公に証明させて民衆を管理しました。

7-2. 武士の管理名簿

武士には、分限帳(ぶんげんちょう)と呼ばれる名簿がありました。

幕府や藩は、この名簿に家臣の地位や役職を記載し、人事や俸禄などを管理しました。

分限帳は、公の台帳であるため、現在でも歴史資料館等で閲覧することができます。

7-3. 近代戸籍法の原点

江戸時代は、これまでと同様に「戸籍」という名前はつかないものの、人民管理の仕組みが大きく発展したことがわかります。

さらに幕末になると、急進的な長州藩(今の山口県)で、1825年に戸籍法が施行されます。

この戸籍法が、近代の戸籍制度につながっていきます。

8. 明治・大正・昭和(戦前)の戸籍制度

富岡製糸場 東繭倉庫
富岡製糸場 東繭倉庫

幕末に黒船が来航し、幕府や有力な藩、志士達は欧米の圧倒的な力を目の当たりにしました。

1869年(明治2年)に戊辰戦争(ぼしんせんそう)で勝利した薩摩藩や長州藩を中心とする新政府は、これまでの幕藩体制を一新し、天皇中心の近代的な国家づくりを始めます。

これまでは、藩ごとに行われていた人民管理を、新政府主導で行うようになり、明治5年壬申戸籍(じんしんこせき)を編成しました。

この戸籍は、最初の全国単位の近代的なもので、現代にもつながります。

戸籍を編成することで、激動の幕末から明治にかけて荒れていた治安が回復し、国家体制が整備されていきました。

現代は「戸籍」と「住民票」は別々に管理されていますが、壬申戸籍は「戸籍」と「住民票」は完全に一体化されていて、同じものとして管理されていました。

現在、別々に管理される「戸籍」と「住民票」ですが、管理システムは連動しているため、各種届出が行われると、その情報は相互に反映されます。

しかし、初めての本格的な戸籍だったこともあり、人口が正確に反映されていなかったり、身分差別につながる記載があるなど、完全なものではありませんでした。

壬申戸籍は、差別を助長しかねないとして、現代は閲覧禁止とされ、厳重に国によって管理されています。

その後、明治19年、明治31年、大正4年に戸籍の形式変更が行われ、少しずつ改良が見られます。

明治時代から戦前にかけてまでの戸籍は「家」を単位として、戸主(こしゅ)と呼ばれる一家の責任者が必ず記載されていました。

今では死語になりつつありますが、明治から昭和にかけて、家督相続(かとくそうぞく)という言葉があり、代々長男が一家の財産を承継する慣習がありました。

9. 昭和(戦後)の戸籍制度

広島県産業奨励館(原爆ドーム)
広島県産業奨励館(原爆ドーム)

1945年(昭和20年)第二次世界大戦で日本は敗戦し、GHQが民主主義への改革を進めました。

占領政策の中には、戸籍制度の変更も盛り込まれ、昭和23年に新たな戸籍法が施行されます。

この戸籍法によって戸籍の単位が「家」から「夫婦と子ども」となり、戸籍の仕組みが大きくが変わります。

戦前の戸籍に見られた戸主は、現代では特段の権限のない筆頭者に置き換わりました。

戦後に新しくできた戸籍が、現代の戸籍に直結しています。

10. 平成・令和の戸籍制度

スカイツリー
東京スカイツリー

戦後から現代まで、戸籍制度に大きな仕組みの変更は見られませんが、時代の変化とともに、利便性は高くなっていきます。

平成6年以降、戸籍の電算化が進められ、インターネットを通じ、PCで管理されるようになりました。

以前までは、手書きだったものがコンピュータで印字されるようになり、 縦書きだったものが横書きに変わり、 文章だったものが項目で記載されるようになります。

最近では、令和6年から、戸籍の広域交付が開始され、本籍地以外の市区町村の窓口でも、戸籍を請求することができるようになりました。

これによって、本籍地が全国各地にあっても、最寄りの窓口でまとめて請求できるようになり、相続手続きで必須となる戸籍の収集がスムーズになりました。

戸籍の広域交付制度を利用できる人は、本人・配偶者・直系尊属・直系卑属に限ります。 代理人による請求ができないため注意が必要です。

11. まとめ

日本の戸籍制度は、利便性の高いシステムによって管理され、国民はその恩恵を受けています。

しかし、ここまで至るまでには長い歴史があることがわかりました。

名称は異なりますが、戸籍はいつの時代も、必要不可欠な存在と言えるでしょう。

ノア行政書士事務所では、戸籍の収集や家系図の作成など、相続手続きに関するあらゆるご相談を受け付けております。

ご相談だけでも大歓迎です。お気軽にお問い合わせくださいませ。

Contact

お気軽にご相談ください!

無料相談はこちらから

LINEでの無料相談はこちら

LINE友だち追加
バナー画像
この記事を書いた人
野瀬 航平
野瀬 航平
ノア行政書士事務所代表
1995年3月生。中学校教員>娯楽業>賃貸仲介管理>不動産コンサル>2024年行政書士事務所開業 ■保有資格: 行政書士/宅地建物取引士/FP2級/賃貸不動産経営管理士 ■相続放棄された空き家を再生(利回り30%で運用中) ■第35回SASUKE出場

キーワードから探す

カテゴリーから探す

記事URLをコピーしました