【家紋の歴史】日本が海外に誇る文化!由来を知れば先祖の身分がわかる!
家紋は、長い歴史の中で育まれ、明治時代から戦前にかけてはほとんど全ての国民が使用していたと言われています。
しかし、戦後は核家族化が進み、各家庭で目にすることは少なくなりました。
一方で、国内外問わず企業に目を向けると、家紋がロゴやブランドの要素になっていることが多々あります。
海外からも注目される家紋は、日本が誇れる文化と言えるでしょう。
本記事では家紋の由来や、古代から現代にかけての歴史を探っていきます。
1. はじめに:家紋と苗字の関係
家紋と苗字の関係を見てみると、「鈴木さん」がみんな同じ家紋を用いているわけではありません。
逆に「鈴木さん」と「田中さん」のように、苗字が異なっていても、同じ家紋を用いている場合もあります。
このように、家紋は苗字と一致するものではなく、ルーツとなるご先祖様の出身や職業などによって分かれています。
2. 古代から続く文様文化
家紋の由来を見る前に、まずは文様文化の始まりから見ていきましょう。
縄文・弥生時代の土器を見ると、趣向を凝らした文様(もんよう)が見られます。
縄文土器は網目状の文様が、弥生土器は簡素な文様が特徴的です。
日本人はモノづくりが得意と言われますが、その器用さは、はるか昔から培われてきたのかもしれません。
そして、土器の文様に見られるような、日本人のクリエイティブな民族性が、後に家紋を生み出します。
3. 公家の家紋の由来
奈良・平安時代は、天皇中心の政権の中で、公家が行政を担いました。
公家と言っても、家ごとに上級貴族から下級貴族まで分かれ、身分や役職はさまざまです。
そのため、公家の家紋にまつわる資料は数多く存在します。
歴史学者の間でも、いくつかの説がありますが、有力な3つの説ご紹介します。
3-1. 牛車の文様が家紋になった説
1つ目は、牛車の文様が家紋になった説があります。この説が最も有力です。
進むスピードが遅いことを「牛歩(ぎゅうほ)」と言いますが、公家は機動力よりも、自らの権威を悠然と示すことができる乗り物を好みました。
そして、公家同士で牛車の優劣を競い、より優美な文様を施すようになりました。
この牛車の文様が家紋となったとされています。
3-2. 衣服の文様が家紋になった説
2つ目は、衣服の文様が家紋になった説です。
いつの時代も、好みのファッションを身にまといます。
この時代の公家は、風流があり優雅なデザインの衣服を好みました。
そして、色や素材だけでなく、描かれる文様にもこだわりを持ち始めます。
この衣服の文様が家紋になったとされています。
3-3. 縁やゆかりのあるものが家紋になった説
3つ目は、縁やゆかりのあるものが家紋になった説です。
代表的な例として、梅鉢紋(うめばちもん)があります。
梅鉢紋は、学問の神様で有名な菅原道真が、梅の花を寵愛していたことに由来しています。
そして、今日に至るまで、菅原道真を祭る天満宮の神紋や、菅原家の家紋として大切にされてきました。
このように、縁やゆかりのあるものが家紋になることもありました。
4. 武家の家紋の由来
平安時代後半に、貴族の屋敷を守るために、侍が雇用されるようになりました。
やがて、平氏や源氏を中心に武家が力を持ち始めます。
そんな武家が家紋を用いるようになった経緯を、詳しく見ていきましょう。
4-1. 合戦の色分けが始まり
上の図は、1184年の源平合戦を描いた屏風図です。
源氏は「白旗」平氏は「赤旗」というように、合戦で敵味方を区別するために色分けが行われました。
この頃の武将や軍勢の数は、戦国時代に比べるとまだ少なく、色分けだけで十分だったと考えられます。
4-2. 合戦で目印が必要に
上の図は、1600年の関ヶ原の戦いを描いた屏風図です。
合戦で軍勢が入り乱れる中、色分けけでなく、旗や陣幕に家紋が付いているのがわかります。
合戦の規模が大きくなると、敵味方を区別する色分けだけでなく味方同士でも、武将や軍勢がどこにいるかを判別する目印が必要になりました。
この目印が家紋の由来になったとされています。
このように、公家と武家の家紋の由来を探っていくと、目的が全く異なることがわかります。
公家の家紋の由来:華美なデザインで、周囲に権威を誇示するため
武家の家紋の由来:簡素なデザインで、敵味方や軍勢を見分けるため
5. 家紋は権威の象徴に(武士編)
5-1. 徳川家と家紋
徳川幕府が統治する戦のない平和な江戸時代が到来すると、家紋は戦での実用性が求められない権威の象徴となります。
天下をとった徳川家康は、当時の天皇である後陽成天皇(ごようぜいてんのう)から権威ある桐紋(きりもん)を送られましたが辞退しました。
やがて、徳川家の家紋である葵紋(あおいもん)が、皇室の桐紋よりも、はるかに強い権威を持つようになりました。
そして、あの有名なシーンが生まれます。
水戸黄門「この紋所が目に入らぬか!」
ひれ伏した一同「ハハァ〜!」
5-2. 諸大名と家紋
将軍である徳川家だけでなく、大名にとっても家紋は威光を示すようになります。
参勤交代では、大名は家紋を誇示し、家臣を率いて江戸へ向かいました。
家紋を知らないと、大名行列に無礼な対応をしてしまう恐れがあります。
そのため、幕府の役人や諸大名の家臣の中には、家紋に精通している者が控えていました。
また、町人の間でも、自分の身を守り商売を円滑にするため、家紋を学ぶようになります。
現代においては、ほとんど全ての国民が文字を読むことができますが、江戸時代の庶民の識字率は高くありませんでした。
そのためテキスト(文字)よりも、デザイン(家紋)を活用した方が、自らの威光を示すことできたと言えます。
6. 広がる家紋文化(庶民編)
江戸幕府は身分を統制するために、苗字・帯刀は武士の特権とし、庶民の使用を禁止しました。
一方で家紋は、庶民でも使用することが許されていたため、自家のアイデンティティとして一気に広がりを見せます。
庶民を、農民・職人・商人に分けて順番に見ていきましょう。
6-1. 農民の家紋
地主など有力な農民の間で、家紋が用いられるようになります。
職人や商人と異なり、製品のブランディングを行う必要はなかったため、農民の家紋はファッションのような位置付けでした。
好きな芸能役者や武家の家紋をアレンジし使用していました。
6-2. 職人の家紋
職人は製品に、自分の名前や文字、デザインを刻印するようになりました。
優れた製品は口コミで広がり、銘(めい)がブランドとなり、製品の信頼を示す重要な役割を果たすようになります。
そして、職人は銘を誇りとし、自らの家紋にも用いるようになりました。
江戸時代から代々受け継がれてきた老舗の製品には、今でも銘が刻まれています。
6-3. 商人の家紋
現代の企業と同様に、江戸時代の商人も、屋号を持っていました。
屋号を暖簾(のれん)に染め出し、扱う商品やサービスに価値が生まれました。
暖簾のデザインが、やがて自家の家紋につながっていきます。
代表的な例として、現代の大企業である島津製作所や住友グループのロゴには家紋が見られます。
このように、家紋をシンボルとして、代々受け継いでいる企業もあります。
7. 苗字・家紋の一般化
7-1. 国民が自家の家紋を持つように
江戸幕府、最後の将軍となった徳川慶喜が、1867年に政権を天皇に返上し、明治維新と共に新たな時代が始まります。
「武士」という身分がなくなり、庶民はこれまで禁止されていた苗字を名乗るようになました。
また、ほぼ全ての国民が家紋を使用するようになり、家族の一体感はより強いものとなりました。
新政府主導で、明治5年に壬申戸籍(じんしんこせき)と呼ばれる全国単位の戸籍が編製され、家単位で人民管理が行われるようになります。
やがて、家紋は一家の象徴として、礼装である紋付袴(もんつきはかま)や仏壇、お墓などに付けられるようになりました。
このように、江戸時代から明治時代に大流行した家紋ですが、今日まで受け継いで来たというご家庭もあるのではないでしょうか。
7-2. 現代につながる家紋文化
明治政府は、菊紋(きくもん)の使用を禁止し、皇室の権威の復活を図りました。
この頃「菊は栄える、葵は枯れる」という流行語が生まれ、徳川幕府の権威が落ち、反対に皇室の権威が高まったことを表しています。
菊紋は今でも皇室の紋章とされ、十六八重表菊(じゅうろくやえおもてぎく)は日本の国章として扱われています。
8. まとめ
家紋は日常生活で用いられることは少なくなりましたが、日本文化のシンボルとして、現代まで生き続けていることになります。
一方で、近年核家族化が進み、家や家紋を意識する機会は少なくなってきました。
しかし、古いお墓を見ると、家紋が残っていることがよくあります。
ご先祖様のルーツを探ってみると、何か新しい発見があるかもしれません。
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